武蔵野新田
更新日:2022年12月21日
『ところざわ歴史物語』
52から53ページ(3章8節「武蔵野新田開発」)に掲載
武蔵野新田
江戸時代の中期まで、市域の北部には原野が広がっていました。
その原野を、市域の南寄りに位置する中世からの村が、家畜の飼料や畑の肥料、あるいは燃料を入手するための「秣場」として利用していました。
享保7年(1722年)、幕府は財政を再建する目的で、秣場として利用してきた原野を開発して農地とする方針を打ち出しました。秣場を利用していた村々は開発を命じられましたが、そのまま秣場として使い続けたい農民はこれに反対し、また原野の開発自体もとても困難だったので、幕府の意図はなかなか軌道に乗りませんでした。
そんな状況を変えたのは農民から登用されたひとりの代官でした。
府中押立村の名主、川崎平右衛門は、農作物に必要な肥料である糠などを貸し付けて麦やそばなどの収穫物で返済させ、集めた収穫物を非常時の食料として貯え、新田の経営が早く安定するように心をくばりました。
この時期に開発されたのは、下図のうち白枠で囲まれた村々です。
開発を割り当てられた村の名前が新田の名前となっている場合がほとんどですが、「北田新田」「岩岡新田」「神谷新田」などは村で請け負いきれなかった新田を、農民個人が譲り受けて開発に当たったため、北田氏、岩岡氏、神谷氏などの姓が新田の名前になっています。
もうすこしくわしく
『所沢市史 上』646ページ~ 4編3章2節「切り開かれる武蔵野」
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